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昭和の冬の暖と言えば豆炭あんか

トレホ編集部

新型もち焼き機ではありません

あんかを開いた状態、真ん中にのっているのが豆炭ですあんかの色まで懐かしい

昔、風呂は火を熾(おこ)して沸していた

豆炭あんかの前にまずはお風呂の話から。

昭和40年代。お風呂はオガライト(おが屑を固めた燃焼材)を4,5本突っ込んで新聞紙と木屑で着火して沸かしました。

このオガライトは今も売られているようですが、現在はキャンプ用途が殆どみたいです。令和の時代では小学校低学年に火で風呂を焚かせるなんて考えられませんが貴重な家事の労働力として活躍。

当時のお風呂は上部がタイル張り、底の方が鉄板で出来ている浴槽でした。そのまま足を置くと火傷するので”すのこ”を敷いて入ります。なんとなく五右衛門風呂(あるいはドラム缶風呂)の構造に似ていますね。今思うと結構危険な風呂だったんです。

その当時の風呂の思い出と言えば、
頭髪を洗うために、親父に逆さ吊りにされて頭を洗面器に入れられるのが恐怖で恐怖で堪りませんでした。
目はもちろん鼻の穴お湯が浸入するのが辛かったです。

ようやく豆炭あんかの話です


寒い冬の時期だけ一緒に窯にくべたのが豆炭でした。その名の通りコンパクトに固められた炭です。真っ赤に焼けたら写真にある”あんか”の中心部に置いて挟み込み、ストッパーで固定、さらにタオルでぐるぐる巻きにして冷えた布団の足元にしのばせておきます。布団に入る頃にはほんのり暖かくなっていて睡眠へと誘われました。

あんかは現在では使用が禁止されている「石綿」で作られていました。当時は天然素材としか思ってなかったんですけどね。

低温火傷の痕
この豆炭あんか、寝ている間に巻いていたタオルが外れて、鉄の部分が一晩中私の左すねにあたっていたようです。

朝起きたらこれまでみたこともない大きな水ぶくれが誕生。母親が縫い針の先をマッチの火で殺菌、水ぶくれにプツっと刺して水を抜いてくれました。この火傷の痕はそれから50年経ったあとも私の左すねに残っています。

昭和に小学生だった人なら、小さな歴史傷をいっぱい体に残しているかもしれませんね。

あんかは漢字では”行火”と書きます。洒落てますね。

あなたの冬の思い出はなんですか?写真とともに投稿お待ちしています。

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