メニュー

もうすぐ父の日

話すことが出来なくなってもう20年+

週末の日曜日は「父の日」。
うちの親父が亡くなったのは20年とちょっと前。まだ61歳。
あと数年で同じ歳になるかと思うと何とも感慨深いものがあります。。いやまだわかりませんがね(笑)

生きている時は仲違いしていて、晩年はほとんど口をきいていませんでした。というか幼いころから怖すぎる存在で生きてる間にどんな話をしていたのやら。自分も齢をとったのでじっくり思い出さなければ出てこないですね。

それでも一緒に過ごす時間が多かった時期がありました。私が高校生の時です。当時親父は設備関係の自営をしていましたが、仕事が終わると家に電話がかかってきて飲んでる店に呼び出されます。店というのはいわゆるスナックで、流行り始めたカラオケを歌っていました。話なんかは特になく、開口一番「学校どうだった?」だけ。親父が歌い、続いて私が歌いの繰り返し。

カラオケBOXなんか無かった時代だったので、歌うのがとても楽しかったのを憶えています。未成年でしたが親父がキープしていた「レミーマルタン」や「カミュ」といったブランデーがめちゃくちゃ美味かったことも(カミュはCAMUSと書かれていたのでしばらく「コーマス」と読んでました)。

なんであんなに頻繁に店に呼ばれたのか。スナックに限らず寿司屋やお好み焼き屋もあったかな(地方都市の郊外に住んでいたのですべて家庭的な店です)。すでに親父の背を追い越して見かけだけは立派になった息子(長男)を見せたかったのか?はたまた酔いに任せて普段話す機会のない息子の顔を見ておきたかったのか?今となっては訊ねようがないですが。

亡くなった時はしばらくプチうつになりました。かなり痩せたし。なんのやる気もでませんでした。祖父母以上に親の死がこれほどショックなこととは。それ以来心の中でよく話しかけるようになりました。もちろん返事はありません。

親父は何を思って仕事していたんだろう。何が楽しみだったのか。どんな辛いことがあったのか。

確実にこれだ!と自信があるのは家で飲んでいた酒の銘柄だけです。キリンラガーと白雪とオールドと角瓶。
本もたくさんあったかな。小説ばかり。酒と本が好きなのは受け継いだ。

わが親は何を楽しみに人生を生きていたのか?自分が本当に知りたいのは実はそこじゃないのかなと。
「生きていた」だけじゃダメなんです。自分につながっている人間(親)のリアルに少しでも触れることができれば自分自身の隙間が埋まるような気がしています。

いつかきっとあなたやあなたの子ども達がそんな思いにかられるような気がします。

ということもあって、「思い出ノート」に興味を持ち、「あなたのベスト10ノート」を作ってみたんです。
脳活と情緒の手入れにぜひ。


ちなみにスナックで私が良く歌っていたのは中村雅俊さんの『恋人も濡れる街角』(1982)でした。
映画「鎌田行進曲」のエンディングでしたね。
  


気に入った投稿はSNS等で紹介してください
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする